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Gallery Q - Artists

展覧会名
Korean Diaspora Artists in Asia / Quac Insik
展覧会場
ソウル国立美術館、韓国
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開催期間
2009年7月17日- 9月27日
日本側キュレーター
上田雄三

郭 仁植 Quac Insik(1919年4月18日- 1988年3月3日)

 

Korean Diaspora Artists/郭仁植 

郭仁植は何故日本の地を選び亡くなったのか、私は時折思い出すことがある。

 1986年12月27日都立府中病院胸部外科にて郭仁植の癌が発見され、1988年3月3日東京、板橋の誠心会病院
にて亡くなられた。(68歳) 3月2日の夜遅く、私は郭仁植の奥様、小俣智子(1994年死亡)から電話を受
けて横浜の自宅から稲城市の郭仁植のスタジオに車で駆けつけた。その日病気が急転し、救急車を手配し、病
院に向かった。稲城市、府中市、調布市と東京郊外の近くの病院に問い合わせたが、何処もベッドの空きがな
く、受け入れてもらえなかった。結果稲城市から車で2時間近くもかけて、東京都内の板橋の病院に向かった。
けれどもその病院も同じくベッドの空きがなく、仕方なく階段の下の隙間にカーテンで仕切られただけの小部
屋に連れ込まれた。本当にベッドの空きがなかったのか定かではないが、私には郭仁植が韓国人であったこと
も病院側の断る理由だったかもしれないと思った。その夜、郭仁植は衰弱した身体で何度も「起こしてくれ」
と叫び、胸の奥から激しく“ゼイゼイ”と息を吐いていた。そして翌日午後7時50分さらに病状は悪化し、酸素
マスクが口にあてられた。郭仁植の胸が大きく上下し膨らんでは縮んだ。3人の主治医と4人の看護婦は病院
中から色んな器具を運び、手当をした。最後に郭仁植は小さな声で「ありがとう」と私に感謝を発し、最後に
右手を高く上げて「アイゴ〜」と叫んだ。その後、脈拍数が200までカウントされて、その後一気に0の数字を
指した。数度電気ショック療法も試みたが奥様が耐えかねて「これ以上止めて下さい」と叫び、ベッドの下に
ずり落ちた。そして午後8時15分、郭仁植はこの世から息を引き取った。死の直後、通常は亡くなったその日
は安置し、翌日に運ぶものだが、病院側はすぐに郭仁植の身体を持ち上げ、持ち帰るよう私たちに言った。
その扱いはまるで荷物のような扱い方に私は怒りを覚えた。そして看護婦たちが郭仁植の身体を持ち上げ、運
ぼ うとしたその時に私は自分の目を疑った、真っ白なシーツの上に郭仁植の首から外れた点滴のパイプが逆流
し、 シーツの上に流れだしていたのだ。その血の跡は40cmもあっただろうか、深紅の大きな一つの点になっ
ていた。

戦前、戦中、戦後を日本で生き抜いた芸術家、郭仁植の歴史は韓日の不幸な歴史だったかもしれない。けれども
彼の東洋的な思想は多くの日本の芸術家たちに、韓国の芸術家たちに受け継がれ、脈々と生きている。点を打ち
続けた郭仁植の生涯は孤独ではあったかもしれないが、郭仁植は日本の地で、愛する妻である小俣智子のそばで
息を引き取ることを選択した。身体はベッドから消えたが、そこに偶然に残された、深紅の点は、まぎれもなく
郭仁植の作品の言葉と重なる。

 「点は点を呼び、点が重なり、点を打つことで超える。」(郭仁植)
 郭仁植は点を打つことで死をも超えようとしたのだった。

 郭仁植は1919年4月19日、韓国慶尚北道達城郡玄風面上洞に生まれた。1937年郭仁植が18歳の時、父親の勧
めで東京の早稲田大学の商学部に留学のために来日した。けれども郭仁植は父親の意に反して、帝国美術学校
(現;武蔵野美術大学)に入学してしまった。のち帝国美術学校の内紛のため二年後多摩帝国美術学校に(現;
多摩美術大学)入学、しかし卒業生徒の名簿には記載されていないことから卒業はされていなかったかもしれ
ない。1910年に日本が韓国を併合する1年前の1909年に高羲東が東京美術学校(東京藝術大学の前身)に最初
の韓国人留学生として入学したことに始まる。郭仁植もまた韓日の不幸な歴史のはざまを過ごしていた。戦後
まもなく郭仁(郭仁植ではなく)と名乗り、本名を隠し東京に在住する。韓国の近代美術史は日本帝国主義の
武力によって押し進められた歴史とともに、郭仁植や金煥基といった多くの留学生によって、日本経由の西洋
の美術が開花していった、萌芽期の時代でもあった。故にこうした動乱期に青春を日本で過ごした郭仁植にと
って、日本は「屈辱」と「希望」という矛盾に苛まれた時代でもあった。また当時李承晩政権の反共の弾圧が
強化されていた時代、郭仁植の実兄は朝鮮動乱中、南北朝鮮の統一運動の青年団長という役職のために、韓国
人パルチザンに撲殺された。そしてまた故郷の大邱の叔父が共産主義者と間違われて、処刑されていた。戦前
より日本に在住していた郭仁植は「祖国平和統一・南北文化交流促進文化祭」(1961年4月)「連立美術展」
(5月)「合同演劇発表」(7月)「南北文化人による文集」(8月)を通じて祖国の平和を願いながら運営委
員として活動を続けていた。このような状況下で郭仁植は東京での活動家の情報提供を韓国政府の文化統制局
より強要された。実兄を一番信頼していた郭仁植にとってしかも祖国、韓国人同胞によって撲殺された兄の死
は郭仁植の心を二つに引き裂く事件であった。分断によって起きた不幸の中で、郭仁植は祖国に帰国する機会
も薄れ、東京の韓国大使館でパスポートを破り捨てたと聞く。(本人より筆者は聞いたがいつ頃であったか不
明。1940年に大邱の三中井画廊にて個展とあるので、再度日本に戻ってからの事件のようだ)その後パスポー
トを失った郭仁植は1982年頃まで韓国の地を踏む事はなかった。また郭仁植の奥様、小俣智子は以前、北朝鮮
に松山バレエ団の一員として招待されたことがあった。金日成の前でバレエを披露したこともあり「私が北朝
鮮に一度行ったことが、韓国文化統制局から主人が北のスパイと誤解を受けたのではないか」と私に話してく
れた。1985年の韓国国立現代美術館(金世中館長)での「元老作家帰国展、郭仁植回顧展」は、郭仁植の長い
苦労の歴史からの解放に終止符を打つかのように見えた。李慶成氏の文中で「韓国に帰国することなく日本に
踏み止まった」理由に私はこうした一連の事件と実兄の死の経緯があったように思われる。日本に踏み止まっ
た郭仁植を支えたのは、元松山バレエ団にバレリーナとして所属していた日本人女性の小俣智子であった。

当時の郭仁植の心中を察すれば心癒す、遠い祖国を忘れさせてくれたものは、献身的な小俣智子の優しさだっ
たのかもしれない。けれども小俣智子は韓国人作家郭仁植との結婚によって家族から反対され勘当されていた。
小俣智子は郭仁植の死後、1995年に原因不明の突然死によって亡くなっているが、小俣智子もまた韓日の狭間
で家族と別れて不幸な時を過ごしていたのだった。

 1958年ルチオ・フォンタナは「新しい絵画世界展」と題された具体の美術展に出品しているが、その後郭仁
植は1960年から1965年の間に真鍮の板状のものを切り裂いたり、繋ぎあわせたりした作品を数点制作している。
(図版:Quac-No.1.jpg)フォンタナは金属やカンバスを切り裂いた作品で知られるが、郭仁植の作品にも銅板、
真鍮や板、紙といった「もの」が頻繁に登場するようになったり、作品に碁石を取り入れたり、吉原治良の作品
のように円を描く作品も、こうした「具体美術協会」の一連の活動とは無縁ではなかった。「具体」の自由奔放
な世界が郭仁植の作品に大きく変化を与えたことはいう間でもない。郭仁植の60年代の作品は「西洋美術」と
「東洋美術」との葛藤、創造と破壊を繰り返す作品として見て取ることができる。さらに郭仁植の作品を決定づ
けることとなった作品、パネルの上に石膏を塗り、そこにガラスを貼付けて割った作品(図版:Quac-No.2.jpg)
やパネルの上に黄色い絵の具をアンフォルメル的にマチエールとして塗り、その絵の具の上にガラスを貼って、
二ケ所をハンマーで割った作品(図版:Quac-No.3.jpg)は1960年代、日本の高度経済成長の中で工業製品が多く
生産され「街中にガラスのビルが出現した」(郭仁植)時期でもあり、工業化社会への警告をうながす批判的な
作品として制作された。このガラスを割った作品が後のモノ派で知られる李禹煥のガラスの上に石を置いて割っ
た作品(1966年)に影響を与えていることは確かなようである。李禹煥が過した時代、1960年代後半の物の大量
生産による、高度経済成長期に世界が被われるであろう物質文明に対しての「時代批判的な表現学」(李禹煥)
であった。また「政治的にも経済的にも大きな転換期だったわけで〜高橋和己の『我が解体』に象徴されるごと
く、従来の知の体系は、まさしく、解体を迫られていた。」(『余白の芸術』李禹煥)こうした時代背景の中で、
ガラスという工業製品と自然石という「外部との連絡を自然石や鉄板で無限定な強い外部性を示唆する」「作る
ことから離れて、モノ派が取り組んだのはいみじくも物についてではない。概念やプロセスとの対応で変移する
物の外部性」(李禹煥)に着目した。郭仁植がガラスにヒビを入れることで、李禹煥のガラスの作品にヒントを
与え「無限定な強い外部性を示唆する」ことになったと私は思える。郭仁植のガラス作品もまた「無限定な強い
外部性を示唆する」ことがその後の一連のモノ派の人たち(関根伸夫等)の作品に受け継がれていったことは事
実であろう。

 1962年に制作された他のガラスの作品には平面状にサングラスを貼って割ったもの(工業製品)(図版:Quac-
No.4.jpg)やウイスキーグラス(工業製品)(図版:Quac-No.5.jpg)を貼付けて割った作品がある。郭仁植のガ
ラスの作品は「具体」と「モノ派」の美術史との関係を繋げる手がかりとして日本、韓国の美術史に多大な影響
を与えたと言って過言ではないだろう。その後、郭仁植は何層にも重ねた手漉きの和紙の両面から彩墨や青墨に
よって、点を一つ一つ重ね打つ作品を制作した。素材への関心は和紙だけに留まらずに、多岐にわたり石・鉄板・
土・銅板・版画作品へとモノ派の論理とは別の「表層」、「表面の作品」へと展開していった。1969年の「美術
手帖『ものの言葉を聴く』」という郭仁植の文章には、その後韓国や日本で素材を意識した作品が多く増えて行
く中で、創作の態度として未来を予見していたように思われる。

「ものにとりつかれて、もう3〜4年になろうか。初め真鍮板、昨年から鉄板というものに可能性を感じ、取り組む
ようになった。それというのも。人間は、すべてものと言葉に行き着くのではないかと思うからである。(中略)
宇宙の中には数知れぬものが存在している。この多くのものにものを言わせ、無数の言葉を聞けるようになれば、
現在われわれが想像もつかぬことになりかねない。ものが発する言葉は、必ず新しい次元を生み出すことになろう。
この『円』のようなものに、ものを言わせるギリギリの行為である。私は一切の表現行為を止め、ものが発する言
葉を聞き取ろうとするのである。」(郭仁植)

郭仁植にとって和紙や真鍮板を用いたこれらの作品群(1965-68年)はもともとこの素材自体が祖国、韓国では
日常的なもので、身近な素材であったことからも、望郷の思いとしても郭仁植は見ていたのかもしれない。

 最後に郭仁植と李禹煥がもっとも親交のあった当時東京に在住していた、上智大学文学部教授であり、神父で
あり、美術家であり、評論家であったアメリカ人、ジョセフ・ラブ(1992年、東京で死去)の評論を記載しておく。

 「1960年代日本の前衛美術家の多くが欧米の美術からの模倣や影響下で苛まれていた時期、アメリカからの抽象
表現主義、イギリスから始まったポップアートとは郭仁植の同行は他の美術家とは異なるものだった。日本の現代
美術を支えている前提を壊すことだった。彼はガラス板を砕いてキャンヴァスに貼りつけたり、ガラス板の上に別
の破片を並べたりすることで、文学的なアート形式に立ち入ることなく“抽象芸術”の公式から脱け出 そうとした。
郭仁植の作品は、シュールレアリズムの“発見されたオブジェ”的な性格はまったく持たなかった。言いかえれば、
日本の多くのア−ティストをとりこにしたシュールレアリズムの心理学的あるいは説明的コンセプチュアルな資質
とは,無関係な形式を持っていた。郭仁植の場合、主につなぎあわせる作業---ガラスの破片を接ぐことで、アーティ
ストとモノも結ばれた---その結果として、形ある作品が生み出された。
 破壊と再構成によるこのプロセスは,コンクリート・石・真鍮板など他の素材においても追求された。これらの
作品には、1950年代末から1960年代初めにかけて流行した『反芸術』の攻撃的要素はまったく見られず、むしろ新
しい秩序に何かって動き始めているようだった。」
(偉大な円--郭仁植の仕事への覚え書き-1982年4月、ソウル・ 現代画廊カタログ「郭仁植作品展」ジュセフ・ラブ)

上田雄三(ギャラリーQ)
Ueda Yuzo (Gallery Q / Director)

 

題名:作品62-302、サイズ:73 x 103cm、制作年:1962年
素材:パネルにガラス:光州市立美術館/河正雄コレクション蔵


題名:作品Work62-206、サイズ:73 x 51cm、 制作年:1962年
素材:ウイスキーグラス、石膏、パネル、個人蔵


題名:作品Work63、サイズ:75 x 103cm、制作年:1963年
素材:パネルに絵の具、ガラス、韓国国立現代美術館蔵


題名:Work 65-6-2、サイズ:117 x 71cm、制作年:1965年
素材:銅板、韓国国立現代美術館蔵


題名:作品Work63-100、サイズ:73 x 51cm、制作年:1963年
素材:サングラス、石膏、パネル、個人蔵


関根伸夫
題名:位相-大地 サイズ:H270×φ220cm、 制作年:1968年
第1回神戸須磨離宮公園現代彫刻展 朝日新聞社賞受賞


Quac INSIK works

ネット販売できます。

Untitled 
sumi, washi, canvas on panel
81x83cm
1978
3,150,000 Yen
Work 86-A  
Color Etching
image 50x44cm
1986
189,000 Yen
Work 86-B  
Color Etching
image 51.5×51.5cm
1986
210,000 Yen
Work-C  
Lithograph
image 76×57,5cm
1983
189,000 Yen
Artist Profile
1919 4月18日 韓国慶尚北道玄風面上洞(大邱)に生まれる
  父 郭洙徳、母 鄭岳伊 の次男(男3人、女1人)
1925 もの心ついた時、私の回りにいる人たちは暇があれば書道や水墨に明け暮れていた。
そしていつのまにかその大人達に交わり墨で字らしいものを書き、又墨でその字の
上を塗り絵らしいものを描いた記憶がある。そしてそれは遊ぶ喜びでもあった。(郭仁植)
1926 小学校のころ先生がお前は将来画家になれる才能がある。画家になる為には大きく
なったら美術学校に入る様にと言われた。(「在日韓国人の百人 私の生活信条」育英出版社より)
1928 小学校時代には全国児童画展覧会に度々出品 韓国の“天才豆画家”という称号を
いただいたほど。(新聞の記事より)
1934 (昭和9年)3月20日 玄風公立普通学校 卒業
1937 3月8日下関より日本に上陸  早稲田大学付近に下宿(新宿区諏訪町)
1939 日本美術学校に入学 本科研究家卒(多摩美術大学・武蔵野美術大学の前身)
1940 独立展に初入選
1941 日本美術学校本科研究科卒業
1945-1952 神戸市永田町神楽町1丁目に住む
1988 3月3日 東京都板橋区,誠志会病院,肺癌の為死亡,68歳11ケ月

Solo ExhibitionS
1940 三中井画廊、韓国・大邱
1950 サエグサ画廊、東京
1953 三省堂画廊、東京
1955 小松ストア画廊、東京
  新宿風月堂企画展、東京
1956 国際観光会館サロン、東京
1957 村松画廊、東京
  櫟画廊、東京
1958 国際観光会館サロン、東京
1961 竹川画廊、東京
  南天子画廊、東京
1962 中央画廊、東京
  中央画廊、東京
1963 内科画廊、東京
  新光画廊、東京
1964 現代画廊、東京
1965 画廊クリスタル、東京
1966 竹川画廊、東京
1967 画廊クリスタル、東京
1968 ギャラリー新宿、東京
1969 ときわ画廊、東京
  紀伊国屋画廊、東京
1975 大阪フォルム画廊/東京店、東京
1976 大阪フォルム画廊/名古屋店、名古屋
  大阪フォルム画廊/東京店、東京
1977 ギャラリー手、東京
1978 ギャラリー手、東京
1979 クラーク画廊、札幌
  ギャラリー手、東京
1980 ギャラリー手、東京
  ギャラリープチフォルム、大阪
  ギャラリードメーヌ、大津
1981 匠屋画廊、岐阜
1982 ギャラリー手、東京
  みゆき画廊、東京
  ときわ画廊、東京
  現代画廊、韓国・ソウル
  ギャラリーユマニテ、東京
1983 ギャラリー上田、東京
  77ギャラリー 、東京
1984 ギャラリー上田/ウエアハウス
  ギャラリー上田/銀座店、東京
  ギャラリーユマニテ、名古屋
1985 ギャラリーQ、東京
  Soo ギャラリー、韓国・大邱
  Duson ギャラリー、韓国・ソウル
  韓国現代美術館[回顧展]、韓国・ソウル
1986 Simmomsonギャラリー、米国・ロスアンゼルス
  ギャラリー上田/銀座店、東京
  ギャラリー上田/ウエアハウス、東京
  平画廊、韓国・ソウル
  Duson ギャラリー、韓国・ソウル
1987 77ギャラリー、東京
1989 アトリエ[追悼展]、韓国・ソウル
  ギャラリーQ[追悼展]、東京
1991 現代アートギャラリー (韓国・ソウル
1993 77ギャラリー、東京
1994 羽根木ミュージアム[七回忌展]、東京
1995 ギャラリー松川、東京
  YUNAギャラリー、ソウル
2000 ギャラリーQ[版画展]、東京
2001 GANA アートセンター、韓国・ソウル
  Jo Hyun ギャラリー、韓国・釜山
2002 韓日現代美術50年の礎/第四回光州ビエンナーレ記念展によせて
  <郭仁植の世界>展光州市立美術館、韓国・光州
2009 Atelier 705、ソウル
Group Exhibitions
1937 戦前より独立美術協会展に出品
1949 戦後再建二科会に参加、 のち1955年美術文化協会に招かれ同会で受賞
1957 同会を退会
  新エコール・ド・トウキョウ創立会員
1959 同会を退会
1954 「読売アンデンパンダン展」、 以降数回出品
1956 「新人選抜展受賞[朝日新聞社主催]」、東京
1961 「連立美術展」村松画廊、東京
1965 東京ビエンナーレ「日本国際美術展」東京国立近代美術館、東京
  (東京・京都・高松・名古屋・北九州・佐賀・佐世保・盛岡・仙台)
1967 「現代作家5人展」ギャラリー新宿、東京
1968 「韓国現代絵画展」東京国立近代美術館、東京
1969 「サンパウロビエンナーレ」、ブラジル・サンパウロ
  「木・鉄・鏡・紙展」梅花亭ギャラリー、東京
1970 「韓国現代展 [朝鮮日報社主催]」、韓国・ソウル
1971 「韓国現代展 [フランス外務省]」、フランス・パリ

1973 「明東画廊」、韓国・ソウル
1976 「シドニービエンナーレ」、オーストラリア・シドニー
1977 「韓国・現代美術の断面展」東京セントラル美術館 、東京
  「野外彫刻展」渋谷公園通り、東京
  「6人展」東京画廊・村松画廊、東京
  「現代作家32人展」ギャラリー手、東京
1979 「リュブリアナ国際版画ビエンナーレ」イギリス
1982 「在外作家招待展」韓国国立現代美術館、韓国・ソウル
  「ワールドプリント」米国
1983 「現代美術20年展」群馬県立近代美術館、群馬
1984 「韓国国立現代美術館オープン記念展」 韓国国立現代美術館、韓国・ソウル
1986 「韓国の新しい子供たち展」Dansung ギャラリー、ソウル
1987 「ワイズマンコレクション韓国展」韓国国立現代美術館、韓国・ソウル
  「現代の白と黒」埼玉県立近代美術館、埼玉
  「現代作家にみる屏風展」西武ホール、大津
  「第2回国際犀川アートフェスティバル」信州信町美術館、長野
1988 「88 ソウルオリンピック国際現代美術祭」、韓国・ソウル
  「現代日本の版画 1950-1980」神奈川県立近代美術館、鎌倉
1990 「郭 仁植との交流展」ギャラリーQ、東京
1993 「韓国の現代絵画100年展」現代画廊、韓国・ソウル
1994 「韓国美術の色彩と光り」展、湖巌アートギャラリー、ソウル
1996 「韓国抽象画の精神」展、湖巌アートギャラリー、ソウル
1997 「郭仁植寄贈作品」展 韓国国立現代美術館、ソウル
2001 「形なき東洋」東京オペラシティーギャラリー、東京
2008 「Tama Vivant」多摩美術大学八王子キャンパス絵画東棟ギャラリー、東京
2009 「Korean Diaspora Artists in Central Asia, China & Japan」韓国国立現代美術館、ソウル
  「多摩川の作家展」府中市美術館、東京
  「小野木学・郭仁植 版画展」みゆき画廊、東京
COLLECTIONS
  光州市立美術館、河正雄コレクション、韓国・光州市
  韓国国立現代美術館、ソウル
  湖巌美術館、ソウル
  西武高輪美術館、軽井沢
  亀谷美術館
  ワイズマンコレクション 、ロスアンゼルス
  栃木県立美術館、栃木
  神奈川県近代立美術館、鎌倉
  岐阜県立美術館、岐阜
  埼玉県立近代美術館、埼玉
  羽根木ミュージアム、東京
  府中市立美術館、東京
  有楽町国際フォーラム、東京
  寺田コレクション、東京
REVIEWS
1956 美術ジャーナルNo.57 「郭仁植個展」評※柳生不二雄 P54-55
1957 芸術新潮12月号 「郭仁植個展」評 ※岡本謙二郎 P267
  村松画廊 1957 10/19-10/24
  美術手帖10月号 「郭仁植個展」評※江川和彦 P147-149
  櫟画廊 1957 8/12-8/18
  美術手帖5月号 「郭仁植個展」評※植村鷹千代 P132-133
  三省堂画廊 1957 3/6-3/11
  美術手帖12月号 「郭仁植個展」評 ※東野芳明
  中央画廊 1957 10/19-10/24
1961 CREAT芸術評論誌No.30「郭仁植個展」評※大池秀三 P6-7
  竹川画廊 1961 2/24-2/28
  美術手帖7月号「郭仁植個展」評※植村鷹千代 P148
  竹川画廊 思想の科学No.34「ある在日韓国人画家」※ヨシダ ヨシエ P80-81

1962 みづゑNo.693 「画廊」から ※植村鷹千代 P80
  中央画廊 1962 9/10-9/15
  美術年鑑12月号 郭仁植 作品62-702(写真)
  中央画廊
1964 美術手帖12月号「郭仁植個展」評 ※ヨシダ ヨシエ+野村太郎
  現代画廊 1964 10/5-10/10 P123-124
1966 みづゑ No.734 「画廊」から個展評 ※植村鷹千代 P99
  竹川画廊 1966 2/24-2/28
  美術ジャーナルNo.57 「郭仁植個展」評※柳生不二雄 P54-55
  竹川画廊 1966 2/24-2/28
  三彩4月号 竹川画廊 作品65-101(写真)
1967 美術手帖11月号 「郭仁植個展」案内 ギャラリー新宿 P200
1968 美術手帖10月号「はじめての韓国現代絵画展」 ※北村由雄 P34
  朝日ジャーナルNo.34 「アジア的性格は生まれるか-韓国現代絵画展」
  美術年鑑12月号 郭仁植 作品67-501(写真)
1969 三彩8月号 「郭仁植個展」評 ※山岸信郎 P70-71
  ときわ画廊 1969 6/9-6/14
  美術手帖6月号 「郭仁植個展」案内 P259
  美術手帖7月号 「物のことばを聞く」 ※郭仁植 P45
  「和紙 その無言の叫び」※坂井啓之 撮影 P41-44
  芸術生活No.224 「郭仁植個展」案内 ※郭仁植 P70
  ときわ画廊 1969 11/10-11/15
1970 美術年鑑1月号 郭仁植 作品 ものと言葉(写真)
  紀伊国屋画廊 1969 11/10-11/15
1975 みづゑNo.847 郭仁植「物」への愛 ※ジョセフ・ラブ P62-63
  大阪フォルム画廊東京店 1975 10/20/-11/1日本美術No.124
  「蘇るものたち」  個展評 ※(博) P150
  大阪フォルム画廊東京店 1975 10/20/-11/1
  美術手帖11月号No.400 「郭仁植個展」案内 P320
  大阪フォルム画廊東京店 1975 10/20/-11/1
  小原流挿花8月号「草木の罪ではないのです」※峯村敏明 P66-67
  朝日ジャーナルNo.48 「同時代の歴史」見直す郭仁植の個展 P69
  カタログ 「ある原点」 ※峯村敏明
  (大阪フォルム画廊) 「郭仁植の作品における行為とイメージ」※ジョセフ・ラブ

1976 VISION11月号 「前衛を意識させる現代美術の騎手」郭仁植展 P187
  大阪フォルム画廊東京店 1976 10/18-10/30
  VISION12月号 「人間と自然の一体化-郭仁植の世界」※ジョセフ・ラブ P42-45
  大阪フォルム画廊東京店 1976 10/18-10/30
  美術手帖11月号No.402「郭仁植個展」案内 ※高見堅志郎 P234
  大阪フォルム画廊東京店 1976 10/18-10/30
1977 美術手帖1月号No.415「郭仁植個展」案内※千葉成夫 P295-299
  大阪フォルム画廊東京店 1976 10/18-10/30
  みづゑNo.862 郭仁植「表現の彼岸」 ※李禹煥 P94-95
  大阪フォルム画廊東京店 1976 10/18-10/30
  三彩2.3.4.6月号「郭仁植と李禹煥展 -自然と歪み」 ※平井亮一(美術メモ)
  大阪フォルム画廊東京店 1976 10/18-10/30
  みづゑNo.872 「金煥基をみて<望郷>の歌」※郭仁植 P84-87
  流行通信3月号No.169 「私と自然石」 ※郭仁植 P108-109
  VISION10月号 「韓国現代美術の断面」展 ※菅原猛 P21-25
  VISION12月号 「色彩と平面を越えて」 ※菅原猛 P14-17
  ギャラリー手 1977 11/1-11/19
  小原流挿花1月号「イメ−ジの禅僧」郭仁植展 ※彦坂尚嘉 P62-65
  大阪フォルム画廊東京店 1976 10/18-10/30
  李刊現代彫刻12月号 アトリエ訪問「郭仁植」 ※写真 松原象
  月刊美術No.26 日本の現代美術入門 P40
  今日をささえる代表作家60人
1978 美術手帖2月号No.430「郭仁植個展」評※小川栄一 P215-216
  ギャラリー手 1977 11/1-11/19
  美術手帖3月号No.431作家論郭仁植「物に聞くとき」※平井亮一 P150
  誰が最も影響を与えたか ※郭仁植 P84-85
  「生活、その素材」 ※郭仁植
  VISION12月号 郭仁植 根本の問「0=1-1」※林芳史 P56-57
  美術手帖11月号No.441 画廊案内 ※郭仁植 P260
  「山本有一の書」 6月の風表記 ※郭仁植 P6-7
  その人のみの行為に (文責編集部)
  美術年鑑1月号 「郭仁植個展」案内 P88
1979 芸術新潮12月号 郭仁植の「光」 P68
  ギャラリー手 1978 1030-11/25
  VISION34 「新しい水墨への可能性」※郭仁植 P14-15
  VISION8 「しかるべきものの為に」随筆 ※郭仁植 P79
  版画芸術 冬「血の通った逃げ場のない芸術 郭仁植の作品で思うこと」※李禹煥 P141-141
  美術手帖No.445 「郭仁植個展」評※平井亮一 P190-193
  ギャラリー手 1978 10/30-11/25
  どりーむNo.221 「点を越える」 ※郭仁植 P44
1980 VISION 郭仁植にふれて「表記と平面」※林芳史 P56-57
  ギャラリー手 1979 10/29-11/10
  美術手帖4月号No.464画材と表現二十二考 ※郭仁植 P160-161
  美術手帖9月号No.470ガラス透写(写真) 平面への展開 郭仁植
1981 みづゑNo.911 「ものと表面」 ※秋田由利 P66-69
  ギャラリー手 1980 11/4-11/29
  プログラム 私のマニフェスト81年度 ※郭仁植
  雑誌1月号「今日の韓国」郭仁植個展 アジアニュースセンター P43
1982 芸術新潮3月号「新しいルートをもとめて」※林紀一郎P10-11
  陶4月号 No.21「新たな土の形相を求めて」※伊籐公象 P44-49
  新関東4No.119号 「色彩に秘めたいのちの輝き」※水上文男 P19
1983 みづゑNo.926 「創造のさなかに-墨彩と版画 名体不離の実践」※野村太郎 P72-79
  三彩3月号 「郭仁植の検証する芸術」※武井邦彦 P118
  ギャラリー上田 1983 1/10-1/25
  季刊アート 春号 画商の役割 ※杉山旭 P102-103
  社会との関わりが希薄な現代 美術形象社『個の創意 現代美術の現場から』※米倉守 P544-547
  (書籍) 「生きかわり死にかわりして」
1984 三彩3月号 「郭仁植個展」評Art Review ※武井邦彦 P110
  三彩3月号 「郭仁植個展」評Art Review ※武井邦彦 P110
  美術手帖11月号No.524 アトリエ考 ※郭仁植 P76-78
  「点が点を呼ぶ-自然石にひかれて-」
  月刊美術11月号No.110ニッポン「現代美術」事情※林紀一郎 P34
  その価格と流通の現状  P41-46
  カタログ 現代絵画の20年 ※群馬県立近代美術館
  1961-70年代の洋画と新しい「平面」芸術の動向 P100
1985 版画芸術No.48郭仁植アトリエインタビュー※室伏哲郎P117-127「もの派事始め」
  ポジションNo.2郭さんの<成ること>をつくる絵 ※峯村敏明
  「郭仁植の回顧展」 ※大野郁彦 P180-185
  韓国国立現代美術館 1985 8/7-8/19
1986 芸術新潮11月号 「屏風に花開いた郭仁植」 P88
  ギャラリー上田 1986 9/12-9/27
  版画芸術No.55 郭仁植最新作 ※大野郁彦 P112-117
  「物の言葉を聞く 郭仁植作品世界」
  美術手帖11月号No.570郭仁植の自然石巨大モニュメント P12-13
1987 カタログ斎籐豊作と日本の点描 ※埼玉県立近代美術館 P67,112
1988 美術手帖5月号 追悼 郭仁植 P217
1989 日本美術年鑑 追悼 ※美術研究所 東京国立文化財研究所 P256
1990 カタログ セゾン現代美術館収蔵品 P62,210
1993 民音社(韓国)(書籍) 『韓国の現代美術100年の歴史』※朴来富 P117
1994 パンフレット「郭仁植七回忌展」※李慶成、谷新、林芳史、平井亮一、峯村敏明
1996 雄獅美術(台湾)「日韓芸術・文化考察」※上田雄三 P24-28
  「郭仁植と李禹煥の美術」 ※林芳史 P30-36
2000 Ganaart カタログ 「Inside/Outside & In-between」※丁俊模
  草月-IKEBANA SOGETSU「月はどっちに出ている」※篠田達美 P66-67
  東京オペラシティアートギャラリー、パンフレット
  「形なき東洋」 ※片岡真実
   
  編集・監修:上田雄三(Gallery Q)